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イグナチオは1491年(月日は不明)スペインの北部バスク地方にあるロヨラ城で12人兄弟の末っ子として生まれました。ロヨラ家は先祖代々貴族の家系で、青年時代は伯父のもとで軍人としても文人としても恥ずかしくない教育を受けました。しかし、彼自身「若いころは平気で罪を犯した。特に、バクチ、女、決闘が好きで、生活は乱れていた」と述懐しています。  

1521年、当時スペイン軍が守っていたパンプローナの要塞にフランス軍が攻撃し、もはや勝利は不可能だから降伏した方が良いのではないかと仲間の兵士たちが話し合っていたとき、大尉であったイグナチオは最後まで城壁を守ることを主張していました。その時砲弾が彼の足にあたり、瀕死の重傷を負いました。手術によって負傷した足は治ったものの、気がつくと片足が短くなっていました。当時彼はまだ世俗的な優雅な生活を夢みていたので、医師に訴えて、短い足を器具でむりやりに伸ばすという拷問に耐えたのです。

しかしイグナチオは手術の後、はかない名誉よりも神の栄光のために奉仕する決心をしました。翌1522年、ロヨラ城を出てバルセロナの近くにあるマンレサの洞窟でおよそ1年間こもって、祈りと断食の生活を送りながら、人生の行く手を見い出そうとしたのです。イグナチオが1548年に著した『霊操(心霊修行)』は、このとき草案をまとめたといわれています。

マンレサを後にしたイグナチオはエルサレムに巡礼し、そこで司祭になるという使命をいだいて1524年、バルセロナのサラマンカ大学でラテン語の勉強をはじめたときにはすでに32歳でした。さらに2年後にはアルカラの大学で学び、1528年、パリに向かいました。

当時、パリの教養学部に入学する新入生の年齢は15-16歳でした。そして20歳ぐらいで修士号を取得し、さらに神学・法学・医学等の学部に進学する者もおりました。イグナチオは、パリ大学の50以上もある「学院」の中から「聖バルバラ学院」を選んで入学し、若い学生に負けずに勉強して教養学部の修士号を取得。さらに神学課程に進学し、学位を得た1534年に、イグナチオはすでに43歳になっていました。パリ大学では長い間、ヒューマニズム(人文主義)という新しい学問を取り入れることを拒んでいましたが、聖バルバラ学院は彼が入学する2年ほど前から、これを取り入れていました。ここで受けた教育は、後に彼がイエズス会を創設し学校経営に携わったときの教育方針に大きな影響を与えたと言われています。聖バルバラ学院の学寮では、イグナチオがイエズス会を創設するとき、同志の一人として参加したフランシスコ・ザビエルも寮生として学んででいました。

パリでの生活の間にザビエルを始め、イグナチオに出会い、『霊操』をしたいというグループは6人になっていました。イグナチオを含めた、これら「7人の同志たち」は、1534年8月15日、聖母マリアの被昇天の祭日に、パリのモンマルトルの丘のふもとにある小さな聖堂で誓願をたてました。

モンマルトルでの誓願は、キリストにならって清貧のうちに生き、隣人のために尽くすこと。貞操を守り、エルサレムに巡礼し、自分たちの生涯を人ひとの霊的指導に捧げること。エルサレムに永住が許されない場合はローマに引き返してキリストの代理者であるローマ教皇に拝謁して、教皇に従順を誓い、より大きな神の栄光のために、どこにでも遣わされることを願うというものでした。この「より大いなる神の栄光のために」は、イエズス会の標語として現在に至っています。

イグナチオとその同志たちは、1537年にベネチアの教会で、ビンセンテ・ニグサンティ司教によって司祭に叙階され、共同生活をしながら、新しい会について討議し合い、会設立の要旨を作成してローマ教皇に提出しました。1540年 9月27日、ローマ教皇パウロ 3世から正式に「イエズス会」創設の認可を受けました。翌1541年 4月14日、会員の投票によってイグナチオはイエズス会の初代総長に選出されました。ちなみにコルヴェンバッハ現総長は、第29代です。

 

 

 

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