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メッセージ

キリストのように
キリストと共に生きたい

旅の道、道の友なるイエスだから

主日、週日の聖書、聖書講座などでお話された
神父様からの聖書の解説とメッセージを掲載しています。

2019年

年間第8主日のお説教から(3月3日)続き 2019/03/19

なお、相手の目からおが屑を取り除いてみる前に、まず、自分の目にある丸太を取り除いて、自分の目がはっきり見えるようにする必要があります。要するに、自分のすべての欠点を直すのではなく、視線を妨げる欠点をなるべく直してみる訳です。

すなわち、人の悪いところを見て、「良いところを見ないという欠点」「その人に対する偏見という欠点」のように私たちは好きな人がするすべてが素晴らしいと思って、好きではない人がするすべてが悪いと思いがちでしょう。

自分がその人を妬んでいるという欠点は、人にも自分自身にも隠しているつもりの妬みです。

この三つの欠点という丸太を取り除いておけば、相手を明らかに見ることができるでしょう。

そこで、自分が話す前に本人からの事実経過を聞いた方がよいでしょう。噂にならないで、相手からの直接の「生放送」を聞くのがよいのです。

それから、「なぜ?」それをしているのかと聞いて、相手の立場からも事実を見ることが大切です。そして、相手の成長と幸せを求めて、親切に怒らないで、自分が暫定的に真実だと思っていることを簡単明瞭に話すのです。

このプロセスは、大事でわかりやすいのですが、その現実の行いはかなり難しいでしょう。

年間第8主日のお説教から(2019年3月3日)2019/03/05

「まず自分の目から丸太をとりのぞけ。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。

[ルカによる福音書 6章42節]

「丸太」とは大きな過ちや欠点です。丸太の一つの部分である「おが屑」とは、同じ質の小さな過ちです。「取り除く」とは、人に注意し、アドバイスをして、プライドに傷をつけそうな真実を言うことです。

それを言う必要でなければ、言わないほうが良いでしょう。

相手が直すことが出来そうもないことであれば、それを言わなくても良いでしょう。

しかし、真実を言うべきだったら、その真実は最高の親切でしょう。

遠慮しすぎて言うべき真実を言わない人は、一見、やさしいと思われますが、本当は最も不親切な人でしょう。今更遅い時には、いっぺんに全部言いすぎるからです。

2018年

思い悩むな(2018年11月)2018/11/19

「貧すれば鈍する」と言う諺ありますが、確かに、極めて厳しい貧困で悩んでいる人間と国々は、文化を大事にする余裕がない時もあります。

しかし、非人間的な貧しさは別にして、「厳しいけれどもまあ、何とか…」という程度で 「貧」する大多数の人は、ほとんど何もない人々との分かち合いを全く考えないで、必要以上の貯金について思い悩みすぎるような気がします。

思い悩みすぎるからこそ頭と心が「鈍」するのではないでしょうか。

永遠である神の愛は、人間の永遠性を保証する(2018年11月) 2018/11/19

愛してくださる永遠の神の存在自体は、死ぬ人間の永遠性を表します。

愛する神が永遠に生きるのなら人間も永遠に存在するはずです。

G.マルセルに言わせれば、人間や動物を「愛する」という意味は「死なないで!」と願望することです。

納得できるこの考えに従って、人間を愛してくださる永遠の神は、人間にも永遠の命を願望なさるはずです。ご自分一人で生き残って、肉体的に死んだ私たちが「無」になって消えるという状態を許すのなら、結局、私たちを愛してくださらないことになる訳でしょう。

それは、「死なないで!離れないで!」と願望なさらないからです。

命と愛の源であり、命と愛そのものである神という創造者が「死なないで!」と本当に望んでおられたなら何らかの形でその望みを実現することができるはずです。

人間が「無」になることを許さないで、私たちの命を、命そのものであるご自分の側で永久に保つことができるはずです。

「裁くな(マタイ7:3)」(2018年6月)2018/06/19

イエスが言ったように偽善者は自分の目にある丸太(大きな過ちや欠点)を見ようとしないで、人の目にあるおが屑(小さな過ち)を取り除こうとします。

実は、おが屑は丸太の一部分なので自分が裁いている小さな欠点は、結局、自分にある大きな欠点と同じ種類のものなのです。

しかも、自分の丸太を取り除かない人は相手の目のおが屑を見ることはできないでしょう。
明らかに見えるには視線を妨げる次に示す三つの欠点という「丸太」を取り除いた方がよいでしょう。

  • 人の長所を見ないで悪いところを注目すると言う欠点
  • その人に対する自分の偏見と言う欠点
  • その人に対する自分の妬みと言う欠点

即ち、「丸太」となるこの三つの欠点をなるべく直して、見えるようになってから、最高の親切である真実をその人に打ち明けて、おが屑を取り除くことができるでしょう。

私たちは大抵、自分に優しくて人に厳しいのです。

「姦通した女(ヨハネ8:1)」を石で撃ち殺そうとしていた人々に向かって、イエスは「罪を犯したことのない者は、先ず石を投げなさい。」と言いましたが、皆は次々に手に持っていた石を地面にそっと置いて帰ってしまいました。

このように人の過ちや欠点を裁くことは人に「石を投げる」ことになります。

「最後の審判(マタイ25:31)」(2018年5月)2018/06/11

人が死ぬ時に天に入るための「試験問題」に対しては、行いでもって正しい回答をする人々でしょう。

そのことは、ずっと前から発表されているたった一つの「試験問題」なのです。

即ち、自分を必要とする人に対して、自分ができるだけの愛の行いをしたかどうかと言う簡単明瞭な「問題」です。

それに対する回答は人々の人生を評価する基準になるでしょう。

しかし、その回答の正しさを公平に判断することができるのは全てをご存知でおられる神だけでしょう。

「この世の中の復活」(2018年5月)2018/06/11

命の限り生きようとする意欲と明るい真剣さで、家族として友達として悩んでいる人を受け入れるために輪を広げて、今を喜んで生きることができるために弱くなってきた元気の「復活」を求めればよいでしょう。

信じにくいし分かりにくい死後の復活を父である神に任せて、今を喜んで生きるのです。

ところが、今はどうしても生きる意欲と元気を心から引き出すことのできない人もいます。

その人は空がまた晴れると信じて、痛みと感じる自分の心から少し忍耐と希望を引き出して、ゆっくりと物事に運ばれて歩み続けるようにすればよいでしょう。

空は必ずまた晴れるのです。

「天」(2018年5月) 2018/05/11

神は天にのみならず「無限のここ」に、つまり、どこにも精神的におられるはずです。

すべてが神であるということではなく、神がどこにもおられるということでしょう。

しかし、天は「神の場」と「神のありさま」を見事に表すシンボルです。

天からは地球がありがたい雨と太陽の光をいただきます。

天からは下のすべてが見えます。

天はどこからでも眺められます。
たとえ豊かでない国の貧しい家族であっても湾から夕陽を臨み、砂漠から星を眺めたりして、無料で家庭的に楽しむことができます。

天は皆のものです。
地の持ち主はお金と力によって決められますが、地の持ち主が起こす公害によって汚されていても天は皆のものです。

天は皆を平等に受け入れます。
「天の父は、悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5;45)

天は神のように人間をはるかに超える無限の神秘です。

天の空気は神のように人間を超越しながら肺まで沁み込んで命を支えます。

神の必要性は、空気の必要性のように不在で感じられます。
空気がなくなる時にはいかに必要だったかと分かります。

ところが、人間は空気の不在で空気の必要性を強く感じけれども、神の不在では残念ながら神の必要性を感じないのです。

R・タゴールが次のように祈ります。

「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください。」

何故、その痛みを感じたいかと言うと、私たちは神の不在に慣れているので、その不在の痛みを感じないで神の内にいるというありがたさを感じないで神を望まないからです。

神の不在で感じられる痛みは、神からの呼びかけなのです。

それ故「痛みを感じさせてください。」と祈るのです。

ご公現祭の祝日のお説教から(2018年1月)2018/01/23

「星」 (マタイ2;1-12)

 占星術の学者たちのように私たちも先立って進む星に従って行けばその星はイエスがいる場所の上に止まるでしょう。

 「星」とはイエスに導く様々なしるしです。例えば、夢、悩み、喜び、感動を与える出来事、本、人の行い、人の言葉などです。しかし、大切なのは星に従う姿勢です。星に従っている自分には色々な問題が現れるでしょう。

  • * 星が多いのでイエスに導く星を見分けることは難しいでしょう。そこで、歩いているうちに本当の感謝と喜びを抱くことができれば、その星はたぶん本物だと判断しても良いでしょう。
  • * その星は方向を変えることもあります。あるいは、自分が通れない場所の上を進むこともあります。その場合、新しい状況に自分を合わせるための柔軟性が必要でしょう。妥協しない柔軟性、周り過ぎないで周るという柔軟性です。しかし、妥協しやすい人は自己を弁明して自分の妥協を柔軟性と呼びたがります。一方、固くて狭い人は自分を正当化して柔軟性を妥協と呼びたがります。つまり、しっかりした幹があって、尚且つ、「雪折れなし」という柳のようになれば良いでしょう。
  • * 星は見えなくなることもあります。占星術の学者たちにも星が見えなくなった時があります。自分がトンネルに入ったかのような時もあります。病気、失敗、人間関係の悩み、何もかもつまらない感じ、うつに近い状態などがあります。その場合、その時まで歩いてきた方向を変えないでゆっくりと歩き続けるのです。また、星が現れるでしょう。忍耐と希望が大切です。
  • * イエスに会いたい熱意の弱さは最も大きな問題でしょう。学者たちは、どうしてもイエスに会いたかったので会ったのですが、私たちはイエスに出会う意義をあまり感じないようです。しかし、イエスに出会って自分がイエスのようにイエスと共に生きるように努めれば、自分がより良い人になって人が助かるために人に仕えることができるでしょう。

 先だって進む「星」に従いましょう。

刑務所での降誕祭ミサのお説教から 2018/01/05

Que regalo de Navidad quereis?. Respuesta rapida: “Salir de aqui ya!!!”. Pero, desgraciadamente, estamos hablando de regalos verosimiles, no de milagros inverosimiles.

Dios le dijo al Rey Salomon :”Pideme lo que quieras”. “Senor, mas que dinero, poder, vida larga o victorias en las guerras, quisiera sabiduria”. El Senor se alegro de la eleccion. Que pidamos este regalo.

La Sabiduria en la Biblia significa esto:

  • Dialogando con el Senor, conocer lo que Dios quiere de ti. Ahora es claro lo que quiere: que hagas lo que te dicen, evites castigos innecesarios, tengas paciencia con esperanza y te fortalezcas espiritualmente. Pero cuando salgas, tendras varias opciones y caminos. Pide sabiduria para saber que camino quiere Dios que elijas entonces, para ser feliz y hacer feliz a tu familia.
  • Dialogando con las personas importantes en tu vida, conocer lo que quiere su corazon. No lo que quieren sus caprichos, sino su corazon. Lo que llena su corazon.
  • Conocer la causa y la solucion de los problemas. Tu maximo problema ahora es comprender por que has venido a la carcel y como solucionar el no tontear luego con las causas que te han traido aqui.
  • Vivir con hombria y con clase dentro de los problemas que no tienen solucion. Como dijo Darwin, las especies que se conservan son las que se adaptan a las situaciones nuevas. Reza mucho esta oracion:

“Senor, dame paciencia para aceptar lo que no se puede cambiar. Dame valor para cambiar lo que si se puede cambiar. Dame sabiduria para comprender que se puede y que no se puede cambiar”.

Pero no esperes que te traigan este regalo. Ya lo tienes en el fondo del corazon. Sacalo de ahi cada dia.

A echarle ganas y Feliz Navidad.

2017年

「王たるキリストの主日」のお説教から 2017/12/03

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。ある貧しいやもめ(未亡人)がレプトン銀貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは誰よりも沢山入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。

[ルカ21:1-4]

イエスが評価するのは、人がいくらあげることよりもあげる人にはいくら残るということです。

有り余る人々からの有難い寄付によって沢山の人が助かります。しかし、もしその方々は、あまり有り余らないほど寄付をすればもっと沢山の人が助かるでしょう。

そして、その方々自身もこのやもめのように心が洗われることができるでしょう。

一致2017/11/10

パウロは、「心を合わせ、思いを一つにしなさい」と薦めました。(フィリピ2:1-5)

ところが、思いを一つにすることは難しい。

“Quot capita tot sententiae”「頭数があるほどそれだけの意見がある」というラテン語の言葉があります。

しかし、オーケストラのような一致はあります。

楽器も楽譜も音などが異なっていても同じ曲を奏でるオーケストラの一致です。

その曲は、パウロが薦める「一つの思い」になります。

「心を合わせる」ということは演奏の前に楽器を合わせることです。

このようなバラエティーの中の調和こそパウロが薦める一致なのです。

調和の妨げ2017/11/10

「利己心と虚栄心」は、調和を乱します。

諸悪の根源であるエゴイズムと高慢は、あらゆる一致の妨げになります。

エゴイズムな人は、何かを決めようとする時、皆の利益を求めるよりも自分の利益を狙うのです。

もう一つの妨げになる虚栄心に対して、パウロは「相手を自分よりも優れた者と考える」というコツを薦めます。

私たちは大抵、「自分の長所」対「好きでない人の欠点」を比較する傾向があるので、いつも自分が上になります。

もしも、「相手の長所」対「自分の欠点」を比較すれば相手を「優れた者」と考えるかもしれません。

また、私たちは人の価値を定めるために自分の長所を基準にするので自分がいつも「優れた者」になるわけです。

コミュニケーション不足という妨げ2017/11/10

先ず、神とのコミュニケーションによって心を清め、人と話し合い、楽器と合わせてオーケストラのような調和を求めるにはよいことです。

相手の言葉をなるべく良い方に解釈しながら相手が言いたい中身を理解しようと思う姿勢が望ましい。

自分の意見を絶対的な真理にしないで、お互いの意見を尊重し協力し合いながら、真ん中に隠れている真理を探究する話し合いはバラエティーの中の一致をもたらすことでしょう。

知恵2017/11/08

神はソロモンに「何事でも願うがよい」と言われました。

ソロモンは、「長寿、富、敵の命よりも知恵に満ちた賢明な心を求めた。主はこの願いをお喜びになった。」(列王記上3:5-12)

聖書における「知恵」の意味は次のようです。

神を心で知ることです。

神について色々な要素を知るよりも神を深く愛するということです。

神に愛されている事実を信じて感じることです。

神とのコミュニケーション(祈り)によって、私たちに対する神の望みを知ることです。

私たちの本当の幸せという神の望みを知ると同時にその幸せにつながる道も知ることです。

深いところの自分とのコミュニケーションによって、自分自身の心が本当に望むこと、心を満たすことを知ることです。

人とのコミュニケーションによって人の心の本当の望みを知ることです。

難しい状態に関する人の意見を謙遜に聞き分けた上ではっきりと決断し、この決断をしっかり実行することです。

難しい問題に解決がない時には、解決のない難しい問題の中で自分らしく元気よく生きることです。

この知恵がすべてに勝るものなので、主がこれを選んだソロモンの価値観を見て「お喜びになった」のです。

「目を覚ましていなさい」(ルカ12:38)2017/11/02

眠くて、難しくない本の三行を何回も読んでもその内容がちっとも分からない時は、無駄な抵抗をやめて、一旦寝ておいて目を覚ますのが良いかも知れません。

心の目を覚ますためにも一旦休んでおいた方が良いでしょう。

心に一休みを与えるには、心の最も深いところに居られる神と静かに快く話すことが良いでしょう。

そうしたら、心の目を覚まして、人間、自然、芸術などを愛のまなざしで見ることができるでしょう。

しかも、人間、自然、芸術などを深く愛すれば、それを通して神を垣間見ることができるでしょう。

神と快く話して心に一休みを与えて、目を覚ますことができるように願い求めましょう。

死者の日2017/11/02

人間は忘れがちで、大事な人の不在に慣れ易いのです。

あの時の感情を新たに引き起こすのが良いことでしょう。

あの大切な方が亡くなられた時の悲しみと寂しさを新たに感じるのが良い。

あの時に、また、あれからずっと慰めになってきている言葉をもう一度感じるのが良い。

「この方は今こそ幸せ、また会えるのです」という言葉。

あの愛しい方が私に対して抱いていた望みを今度こそ心に受け入れ、行いで実現するのが良い。

「善い人であって心が望む心を満たす喜びで幸せになりなさい」という言葉。

あの時の「よろしく」という願いを、新たに感じるのが良い。

神様に対する「この人に永遠の光と平和と幸せを与えて下さい」という「よろしく」。

その方に対する「私達を忘れないで下さい、見守って下さい」という「よろしく」。

あの時の「ありがとう」という言葉を、再び感じるのが良い。

この方を私に合わせて下さった神様に「ありがとう」。

大切にして下さったこの方に「ありがとう、ありがとう、ありがとう」という言葉。

あの時の感情を新たにして、天に生きているその方を自分の心の中でも蘇らせるのです。

神という神秘2017/11

「神」は、あらゆる定義を超える神秘的な存在です。しかし、聖書の神には次の特徴が現れます。

  • 神は、存在と命と愛の源であると同時に存在と命と愛そのものです。
  • 神は、エネルギーや科学などという「神」と違って、命と愛そのものであると同時に、生きる、愛する存在です。
  • 神は、人間の成長に深く関わって人間と自然と一緒に居られる存在です。

神という神秘を垣間見る2017/11

モーセの場合(出エジプト33:18-23)

「お顔を見せてください。」とモーセが願った時、神はこのように答えました。

「私の顔を見ることはできないが、わたしの栄光を見せよう。あの岩の洞穴に入りなさい。
あなたのそばを通る時、手であなたを覆う。私が通ってから手を離す。
その時、洞穴から出てきて私の後ろと足跡を見るだろう。」と。

存在の源である神の足跡は、作られたすべてのものです。

従って、人間と自然を深く大切にする人は、それを通して神を垣間見ることができるでしょう。

エリヤの場合(列王記上19:9-13)

「主が通ったら、洞穴から出て主の前に立ちなさい。」と言われたエリヤは、洞穴の中にじっとして主が通るのを待ち望んでいました。

「非常に激しい風が起こったがエリヤは外に出なかった。
風の後に地震が起こったが地震の中にも主はおられないとわかって出なかった。
地震の後に火が起こったが出なかった。
火の後に静かにささやく声が聞こえた。
それを聞くとエリヤは外套で顔を覆い、出てきて洞穴の入り口に立った。」

祈りという充実した沈黙で静かな息吹の囁きが聞こえるでしょう。

祈る人は、そのつぶやきの中で主に出会って主を感じることができるでしょう。

キリストが変容したという場合(マタイ17:1-8)

「イエスは、ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて高い山に登られた。イエスの顔は太陽のように輝き、服が光のように白くなった。」

これは、神がご自身を表すというテオファニアです。(ギリシア語の「テオ」は「神」、「ファニア」は「表れ」という意味です。)

「見ると、モーセとエリヤも現れた。」

要するに神はイエスが神だと表しました。神を見たい人は、イエス・キリストを見れば良いというわけです。
イエス自身は何回も「私を見る人は、神を見ることになる」と言われました。

つまり、神の足跡を深く愛して、祈りで神の囁きを心に受け入れて、キリストのようにキリストと共に生きることを願い求めれば、いつも神を垣間見て心で感じることができるでしょう。

なお、イエスのようにイエスと共に生きるためには「4S」を求めるのが良いことでしょう。
日本語のローマ字で「S」で始まる4つの動詞です。
イエスを「知る」「好きになる」「従う」「知らせる」という「4S」です。

しかし、モーセ、エリア、弟子たちは本当に神を見たかったのです。

それとは反対に神の身近な温かさに包まれているという事実を感じたい熱意は私たちには足りないかもしれません。それは、私たちが神から隔たり慣れ過ぎているからでしょう。

従って、R.タゴレのように何回も祈れば良いと思います。

「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください。」

 

洗者ヨハネの洗礼2017/01

ヨハネの洗礼は、心の悔い改めを表す「水」の洗礼です。

その洗礼の目的は、メシア(救い主=キリスト)が一日も早く来られるためにユダヤ人を清めるということでした。

たとえ話の「放蕩息子(ルカ15)」が見せる悔い改めは、ヨハネの洗礼に似ています。

即ち、「放蕩息子」は、
  • 「我に返った」(深く反省しました。)
  • 「お父さんのところへ戻った」(神に、家に、家族に、本当の自分に戻った。)
  • 「罪を犯しました」と認めて謝りました。
この三点を含むヨハネの洗礼は、人間が願い求めるべき悔い改めです。

イエス・キリストの洗礼2017/01

イエスが獲得した恵みを与える洗礼は、「キリストの洗礼」です。

その目的は、人間が神に抱きしめられるという「救い」です。

要するに、「放蕩息子」に対するお父さんの慈しみは、イエスの洗礼が与える「救い」を表します。

即ち、お父さんは、
  • 息子を赦してくださいます。
  • 自分の子供として息子を受け入れてくださいます。(指輪をはめさせます。)
  • 喜んで抱きしめてくださいます。
人間の悔い改めとヨハネの洗礼は、この三点を与えることができません。

イエスが獲得した救いの恵み(Graciaグラシア)・御父からの抱擁)は、神がくださるプレゼントです。
聖霊はこのプレゼントを感じさせてくださるのです。

水と聖霊の洗礼」になるキリストの洗礼は、「火の洗礼」にもなります。

何故なら、「火」は、聖霊の「熱意」と「光」を表す象徴ですし、また、「水」よりも徹底的に清めるからです。

なお、「Gracia(グラシア)」とは、遠くて少し怖い存在として感じられる神が自分を包んでくださる身近な温かさのように感じさせる恵みです。

このGracia(グラシア)は、イエス・キリストの死と復活によって成し遂げられました。

つまり、イエス自身は、「ヨハネの洗礼」を受けました。

そして、私たちは、「キリストの洗礼」を受けることになります。

なぜイエスは悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか?2017/01

結論から言えば、それがはっきりとわかる人はいないでしょう。

それは、イエスが真の神であると同時に真の人間だからです。
若い時のイエスが何をご存知だったのかは誰にもわからない神秘です。

しかし、これに関しては二つの意見があります。

その一つは、イエスはご自分がメシアであり、神の子であり、神であることを小さい時からご存知でしたので「悔い改め」の洗礼によって自分を清める必要がないことをよく分かっていました。
けれども、連帯感の上で、皆と同じように洗礼を受けたという意見です。

同じく連帯感の上で、イエスは神殿のために税金を納めていました。
実は、ご自分の御父の神殿のためには税金を納める必要なかったが、皆と同じように一人の市民として税金を納めていました。
この方針で洗礼を受けたと言う意見です。

もう一つの意見もあります。
即ち、自分がメシアであり、神の子であり、神であることをまだよく知らなかったので、皆とおなじようにその洗礼を受けたかったという意見です。

イエスは、ご自分がメシアだということを次第に分かるようになっていたという推測です。

確かに、御父との極めて「深い一致」を特に祈りによってますます感じておられたのしょう。

そこで、洗礼を受けた時には(マタイ3:13)、「聖霊が鳩のようにご自分に下ったことを見て、『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者だ』と聞いて、自分がメシアだった事実が明らかになったという意見です。

洗礼を受けたイエスの生き方2017/01

悔い改めの洗礼を受けたイエスは、より強く、よりはっきりと聖霊に満たされて、聖霊に導かれるようになりました。

洗礼直後、「聖霊に導かれて」砂漠に行きました。長く祈って、精神的にたくましくなって、それからの誘惑に負けないために荒れ野に導かれたのです。

荒れ野で過ごした「四十日間」の後でも「聖霊に導かれて」人を癒しながら、貧しい人々に福音を宣べ伝えるために出掛けました。イエスは、死ぬ時までその導きに従いました。

私たちも洗礼の初心に戻れば前よりも聖霊に満たされて、祈るためにも悩んでいる人と癒し合うためにも導かれるでしょう。

2016年

「わたしの軛(くびき)は負いやすい」 (マタイ11:30)2016/12

軛(くびき)は、地を耕すために鍬(すき)につけて馬や牛の首にかけるカラーという辛い重荷です。

軛は、弟子が負う「先生の教え」の象徴にもなります。

ユダヤ人にとって「律法」は守りにくい掟が多くて負い辛い「軛」でした。

イエスの掟はただ一つです。

「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」

しかし、そのたったひとつの掟は極めて負い難い軛です。

一体、何故イエスの軛は負いやすくなるのでしょうか。

それに関しては、次の理由があげられます。

イエスの掟には意味があるので、その軛を負う値打ちがあります。

一方、安息日の細かい規則とか肘まで手を洗うようなルールの意味はあまりピンとこないのです。

そして、イエスは「柔和で謙遜な者」です。堅く狭い命令を機械的に守らせる方ではないのです。
広い心で柔軟性をもって人の力や精神状態などを考慮に入れます。

それにイエスは傍らにいてご自分の軛を負って苦労しながら私たちと共に歩んでいます。

これこそ、軛が負いやすくなる理由になります。

「苦しみが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。
あなたがたの解放の時が近いからだ。」 (ルカ21:28)2016/12

病気の苦しみ、人間関係の悩み、金銭状態などの苦しみは辛いです。

しかし、その試練を正しい方法で、自分らしく、心が望む計らいでもって乗り越える時、自信と希望は湧き出るでしょう。

次の苦しみを乗り越えるための自信と希望になります。

この大事な自信と希望という解放を感じて、「身を起こして頭を上げなさい。」

「戻ってきてあなたがたを私のもとに迎える。
私のいるところにあなたがたもいることになる。」 (ヨハネ14:3)2016/12

沢山の宗教の一つの共通点は、人間が死んでも生きるということです。

しかし、どういう風に生きるかに関しては、意見が分かれるのです。

イエス・キリストの教えには、死んだ人間が神になって自分ではいられなくなるということではなく、分解されて地球の自然になることでもなく、他の人間か生き物になることでもありません。

全く違った状態で、まさしく同じ人間が生きるということを教えました。

神にならないで、生きる自分が神を見て、愛しい人々を見て愛し合う。愛し合って喜ぶ。

とこしえに。

つまり、「私がいるところにあなたがたもいることになる。」ということです。

従って、亡くなられた方々は今こそ幸せ。

寂しく残された私たちは、その方々にまた会えるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
聖霊の火を消さないように」 (Ⅰテサロニケ5:16)2016/12

「絶えず祈って」いれば、神とのコミュニケーションを保つことができて、いつも喜んでいられるでしょう。

「どんなことにも感謝して」いれば、いつも喜んでいられるでしょう。

心の底に光る「聖霊の火を消さないで」いれば、いつも喜んでいられるでしょう。

嬉しい時にも、悲しい時にも「いつも喜んでいなさい。」

「新しいブドウ酒を新しい革袋に入れるものだ。」 (マタイ9:17)2016/11

<7月2日(土)年間第13土曜日の聖書から>

新しいブドウ酒とは、「私があなた方を愛したように互いに愛しなさい。」という掟です。

古い革袋とは、律法のたくさんの掟に付け加えられていた多くの伝統、習慣、律法学者たちのルールです。イエス・キリストのすすめる深く広い掟には合わない「革袋」です。

キリストは、自由の中の厳しさを望みます。

そこに問題が生じます。キリストに従うつもりの私たちには、果たして自由の中の厳しさがあるでしょうか。

それとも、自由の中の自由だけでしょうか。

新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。

[マタイによる福音書 9章17節]

「ひれ伏して、感謝した。」 (ルカ17:15)2016/11

<10月9日(日)年間第28主日の聖書から>

感謝は、「情け」のように「人のためならず」ものです。

感謝は、感謝される人のためになるし、跳ね返って感謝する人のためにもなるのです。

感謝する人の心も清められます。

人間にも自然にも感謝する人は、人間と自然との一致を感じることでしょう。

また、人間の心と自然の美しさをより深く感じるでしょう。

たとえば、シシャモに感謝しながらいただく人にとっては、そのシシャモより美しくなり、感謝されるシシャモもきっとどこかで嬉しくなるのではないかと思います。

人間愛と食べ物と居心地の良い家に感謝すれば、人間愛にも食べ物にも家にも恵まれていない人のことが浮かんで来て、そのような大勢の人たちのためにも分かち合いたい、祈りたい熱意が湧いてくることでしょう。

感謝されることを求めすぎないで感謝されることを忘れないようにしましょう。

イエスの足元にひれ伏して感謝した。

[ルカによる福音書 17章15節]

「命に感謝」2016/11

素晴らしいことをくださる「命」、不思議な神秘である命に対して感謝しながら生きるのです。

命を与えてくださった両親に対して、その命を守ってくださったたくさんの人や自然に対して感謝しながら生きるのです。

命の源、命そのものである神に感謝して生きるのです。

つまり、食べ物に対して感謝する最良の方法は「美味しく生きる。」ということでしょう。

命に対して感謝する最も良い方法は、「美しく生きる。」ということでしょう。