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スアイのようす(1) 2012年6月22日
  

【左上の写真】
ディリからスアイに向かうバスは大部分山岳地帯を走りぬきます。涼しく、セーターを着なければ寒くなります。【右上の写真】4分の3はこのような悪路の連続。乾季でもこのようす。雨季になるとさらに悪路になるそうです。【左下の写真】東ティモールの長距離バスは、すべてこのタイプ。私は、運転手の助手席に乗せてくれました。【右下の写真】バス車内のようす。13時間も一緒だと、和気あいあいになります。運転手は3名、車掌が1名のチームで運行。2〜3時間ごとに運転手が交代します。

  


スアイのようす(2)民家 2012年6月24日

  

【左上の写真】
高床式住居。スアイの民家の大半は他の写真も含めてこのような建物です。【右上の写真】このタイプの民家は四方のうちの一辺が出入り口になっており、たいてい2段の木の階段があり家の中に入る。入口の段に続いて一段低くなっている部分(間)があり、その奥に住居部が外から見えないように仕切られてある。いつも入口の段に続く間に人びとは座って外を見ながら仕事をしたり、話をしている。【左下の写真】これは海岸沿いの漁師の家。高床式ではない。クヌアといい、家族や親類が数軒ずつひとまとまりの集落を形成している。【右下の写真】スアイーロロの村のようす。これは、クヌアとは異なるもっと大きな村。このような村のリーダーを、セフィー(Xefi)という。このような家から、学校に生徒は通ってきます。しかしながら、就学率は低く午前中でも子どもたちが家の近所で遊んだり、仕事をしています。

  


スアイのようす(3) 人びと 2012年6月26日

  

【左上の写真】
スワイーロロの村で。【右上の写真】海岸近くに住む漁師の一家。仲良くなり家の前を通るたびに、声をかける。魚もくれた。この一家との話で、海や漁に関する言葉をだいぶ覚えた。【左下の写真】これは別の漁師。手には、疑似針を持っている。彼の家には電気がきていない。村の中心部から歩くと、40分くらいかかる。【右下の写真】おじいさんと孫。この道の突き当りは砂浜で、そこを歩いて田んぼに行く。稲刈りをするそうだ。

  


スアイのようす(4)ポルトガル植民地時代の遺構 2012年6月29日

 村のはずれに、ポルトガル植民地時代の建物の遺構がある。人びとに聞いても、いつの時代からどの時代まで使われていたかわからない。ある人は、「おじいさんや、お父さんから、昔はポルトガル人が住んでいたと聞いているだけで、それ以上は誰も何も知らない」といっていた。高校の歴史の先生に聞けば、もっと分かったかもしれない。13世紀から14世紀にかけて、中国人商人は白檀貿易のためティモールを訪れていた。1513年、マラッカからモルッカ諸島へ行くポルトガル人がティモールへやってきた。彼らも白檀貿易を中国人をも交えておこなった。1522年、マゼランの世界周航の一行がスアイに到着。同年1月から2月にかけて26日間ティモールを探検し、彼らが初めて西洋にティモールを紹介したといわれている。その少しあと、聖フランシスコ・ザビエルも、ティモールには寄らなかったが、すぐ隣の島フローレス島やアンボン事件で知られているモルッカ諸島で宣教した。ティーモール人の中には、聖フランシスコ・ザビエルがやってきたという人もいる。右下の写真は、遺構付近から撮影したティモール海。この沖合に海底油田があり、現在対岸のオーストラリアから輸出されており、それには複雑な国際関係が背後にある。なお、日本の東ティモールからの輸入額のトップは、コーヒーではなく石油である。スアイの位置はグーグルマップで、< SUAI Timor Leste >で検索できます。衛星写真も見ることができます。

   

   

スアイのようすー5 2012年7月5日

【左上】漁師が使う舟。【右上】田んぼの中の作業小屋。昼食を食べている。私も一緒に食べた。【左下】田んぼの同じ作業小屋。稲刈りは、膝までぬかるみにつかってしまう。私も稲刈りをしようと畦道を歩き出したが、止められた。【右下】スアイの市場。背後に見える教会は、現在の総理大臣シャナナの意向で政府によって建設されている。独立運動の際の戦いで亡くなった人々の記念だそうだ。政治的意図もあると、地元の人びとはいっていた。